top of page

代表プロフィール

 

 

名古屋市東区(~就学前)生まれ

名古屋市北区(幼稚園~大学)育ち

父親は一匹オオカミの大工だった。仕事場に行くと材木の匂いがする。木に囲まれて育った

今流木に惹かれているのも懐かしい木の思い出かもしれない

自分も流木のように流れている人生である​

名古屋→長野→東京→上海→鹿児島→秋田→名古屋 ←今ここ

(仕事人生のスタート!)

1985年、中部地方に約100店舗を展開する家電量販店でのヘルパー販売員から仕事人生をスタートする。ヘルパー部門での全店トップセールスを狙うも毎年必ず二位で終わる。一位になるためにどうやったら楽にたくさん売れるのか?を考え顧客の反応を見ていろいろ考えた。そのうち陳列や販売の仕組みをつくることを考えいろいろやってみた。こうしたアイデアが評価されて、セールスで一位を取る前に正社員として入社した

(すでに作詞の才能はあった?)

正社員になってすぐに、会社は50周年事業で社歌をつくるイベントがあり、作詞について社内公募があった。10万円を狙って酔っぱらって書いた渾身の作が予定通り?採用され賞金10万円を獲得した。新入社員にも関わらず社内で有名になった。配布された社員手帳には作詞者名として記載された。森田公一が審査員で彼が曲をつくり、ダカーポが歌い、社内の朝礼では毎朝全部門で歌われたが、社歌は10年近くで廃止され幻の名曲?となった

(入社して二年で店長に!)

入社して二年で長野県の新店舗の店長になる。この記録はたぶん今も最短。その後長野県内での新店舗の立ち上げ数店を店長として任された。長野県は名古屋の本部からは遠隔地とされ、冬は降雪で本部からの臨店はほとんどなく、本部の目が届きにくいことからかなり自由な活動ができた。当時まだパソコンが普及し始めたころであったが、現場の手間を軽減するために店の商品を使って現場のIT化を進めた。当時の小売業は値札も手書きであったがデータベース化してプリンター出力できるようにした。商品の注文も手書き注文書にファックスというアナログ処理であったが、販売と在庫を計算させてできる限り自動化できる仕組みをつくった。当時プログラミングができるSE出身のアルバイトをシステム担当として採用した。現場で自由にさせてくれた風土の会社には感謝している

(情報システムへ配属されたが・・・)

こうした現場でのIT化が目に留まり、本部へ配属された。当時は情報システム推進室課長として。ただし一人の部下もいなかった。当時基幹情報システムの更新が迫られていて、そこに現場システムの効率化を組み込むことを期待されていた。ここでの1年間はシステムの安定性を最重要視する保守的なシステム部と現場活動を優先したい自分と日々戦いだった。当時は若かったので殴り合いに近いところまで対立した

(会社の改革に関わる仕事へ!)

1年間でBPRを推進するためのプロジェクト室長を任された。システムはシステム部門のものではなく会社全体の機能を最適化するものであることから、様々な部署とかかわることを求められる。ここで二人の部下をもらった。当時会社の全機能を掌握するために猛勉強した。現場で販売をやってきただけの自分が多くの知識を身につけた。幸い権限をもらっていたので東京での高額なセミナーや勉強会へも参加できた

(組織を変えるには内部から・・・)

プロジェクトは1年で自主解散した。プロジェクトの全体図は描いたものの実際には組織はなかなか変わらない。そのため、社長室、商品部、店舗支援、店舗開発、マーケティング、経営企画を1年単位で転々とした。毎年異動する部署では会社はどうあるべきかの議論と説得の日々。20年間の勤務で19の部署を経験した

(商品部から店舗支援、店舗開発へ・・・)

バイヤーを部下にもつ商品部長を命ぜられた。小売業の売り場は縦割りでバイヤー間での売場の分け合い取り合い。これでは店舗の改革は進まないとバイヤーの意識改革とMD改革に着手した。しかし家電量販店業界には当時メーカーと古くからの商慣習が根強くあり、まさに忖度と優越的地位の濫用が日常化していた。こうした古い考え方は現場でも不満、商品部では既存の考え方と日常的に対立することとなった。今のMDでは考えられないくらいに顧客志向ではあり得なかった

 

(新規事業の立ち上げ!)

家電業界では新規分野への取り組みが必須となっていた。雑貨やゲームソフトの導入にも関わった。新規業態を模索するために英語は全くできなかったが何度も渡米した。特に家具インテリア店の新規事業立ち上げには思いが深い。当時アメリカで急成長していたクレート&バレルの店舗をモデルとするため、サンフランシスコへの店舗視察にも渡米した。それによって店舗リノベーションを重ねた。そのため当時ぎっくり腰をかなりひどくしていた。この新規業態の店舗で空間演出による売上拡大効果を生む手法を実践していたのが、現在取締役の広瀬典子で​ある。彼女が空間を創造すると、お客さんが目に見えるように増えて売上が自然に上がっていく。これはキレイに陳列できるというセンスではなくて心理的な購買行動を促すノウハウである。今はそれを理論体系化して実践している

(エディオン合併で五千億企業へ・・・)

東京品川でエディオン合併を進める経営企画と商品部を担当した。しかし吸収合併が進むにあたり現場感覚から離れていくと感じていた。企業間での調整に心労を重ねて、仕事がつまらなくなった。次第に大企業の歯車となっていくことに嫌気がさしていた

 

(中国展開でのチャンス!)

名古屋市と南京市は姉妹都市であることから、中国企業との提携を模索するため、自ら志願し訪中した。単独で拠点を上海へ移し、中国企業へのコンサル提供や現地FS調査を行なってきた。中国で出会う若者はみな「自分はその先にあるチャイナドリームを目指している。今の仕事はその過程に過ぎない」という夢を抱えていた。仕事は変わっていっても同じ会社にずっといる自分がなぜか間違っているのではと思うようになった。海外へ出会う日本人(女性が圧倒的に多かった)の若者もやはり同じ価値観で異国への夢に向かっていた。しかしエディオンの海外事業からの完全撤退を受けて、志半ばで日本へと帰国した

(家電販売店という業界)

​この20年間の家電業界は業界地図が大きく変わる激動の時代だった。製品の技術革新とともに規模拡大と革新により生き残りをかけた競争時代であった。こうした時代環境を目の当たりにできたことは自分の生き方にも大きく影響した

(退職から初めての起業は失敗・・・)

20年勤めないと退職金は半額になるため、一年間は窓際で耐え、勤続20年で無事円満退社をした。2008年、上海で出会った日本人と中国での建築設計事業で起業し、サラリーマンを卒業する。しかし、一年足らずで解散。出資した退職金を全額失うことになったが、この一年間に逆境に耐えることを多く学んだ

 

(自らの起業!)

2009年 中国人パートナーと海外展開支援のコンサル会社を立上げ、名古屋と中国に設立。中部経済産業局の国際化アドバイザーや、再びエディオンでの中国FS調査等の仕事を受託。また、愛知県からの東南アジア調査や伝統産業の海外展開支援の仕事を受け、かつ自社でも中国からの輸入品の国内販売や、中国への輸出サポートを行ってきた。この頃、行政機関から補助金のスキームを学び、事業者へ補助金サポートも始める。お金はなかったので、無料のITツールを駆使してホームページを作ったり、コンサルメニューを作ってプレスリリースを発信したりもした

 

(多くのトラブルから学んだ!)

3年に渡る上海での滞在経験から中国事情はいろいろ理解した。その経験を活かして海外展開支援会社を立ち上げたのだが、中国人のビジネス気質の理解はなかなか難しかった。日本の企業と中国人の考え方にいつも板挟みにされていた。それにより事業者とのトラブルもあり、ストレスも多かった。当時はまだ中国へ販売を目指す会社はそれほど多くはなかったため、セミナーや勉強会に呼ばれることも多かった。しかし次第に中国への進出は珍しくなくなり、自分の優位性は失われていったと同時に海外展開という企業の部分的な側面のみならず、経営全体へと関わりたいと思うようになった。しかし事業者の計画を策定することのみを生業とする多くのコンサルタントのような存在になることは性に合わなかった。事業そのものをリノベーションさせることが自分の性には合っていた

(海外展開アドバイザー)

中国に惹かれて事業を始めたが、中国の成長は当時出会った中国人や現地にいる日本人から学んだ。中国は近いうちに日本を越えると彼らが教えてくれたし、その本質は自分も肌で体感した。毎月のように中国へ渡航を繰り返していた。やはり海外展開支援は今この時を知らないと意味がない

中部経済産業局や愛知県にお世話になり、常滑焼などの海外展開支援を行った。まだ当時の中国では取引に対する意識が未成熟であって、様々な苦労があった。こうした苦労話は名古屋を中心に海外展開セミナーで話させていただいた。中国ビジネスは今はもっとスマートな取引ができると思う。愛知県からは食の海外展開ハンドブック作成の業務も受託した

(コンサルタントについて学ぶ)

エディオン時代からお世話になったコンサルタントの先輩から多くを学んだ。大手小売業の商圏分析の仕事を請け負った。当時は新規出店の売上予測は大手流通業ですら精度が悪く、出店してからずっと赤字という店舗も多くあった。大手小売業の数社から既存店分析による精度の高い売上予測を提供してきた

当時本業だった海外展開から中国上海でのショッピングモール立ち上げ​を一緒に進めた。このショッピングモールはいち早く日本の高いサービスを取り入れていく姿勢に感心した。ここにはユニクロや洋服の青山のほか日本企業も多く出店していた。モール全体へ日本型サービスを浸透させるためにサービスの実践訓練を行った

コンサルタントの先輩からは体を動かすと儲からない、口だけ動けばよいと教えをもらったが、自分の性格上もあり現場で体を動かさないと納得しないのが、その後もずっと儲からない状態になっているi

 

(鹿児島へ!)

2014年、よろず支援拠点が開設された。初年度より鹿児島県のチーフに採用され、5年間を鹿児島県で活動する。鹿児島~名古屋間はLCCが運航していて安く往来できたのは、大変有り難かった。鹿児島では年間1000社を越える相談対応を行い、商品や店舗の改革による成果創出にこだわってきた。この間に優秀なメンバーでチームをつくり専門性の高い知恵を集めて、デザイン金融調整のスキルを磨いてきた。その結果、経営が厳しい事業者の案件にも対応できるようになった。地方のサービスの現状にカルチャーショックを受け、成果を生むための改善を考えるようになっていく。地方ではサービスを高めることこそ利益を高めるのだとこの時学んだ

奄美大島へ毎月出張相談へ行っており、この時に商店街の再生にも取り組んだ。また奄美大島で流木に魅せられ集めるようになった。今はそうした流木を何らかの作品にしようと考えている

はじめて地方で仕事をして、都市と地方の違いをいろいろ学んだ。都市部で考えている概念は地方には合わないことも多い。そこから地方のあり方を考えるようになった。何か地方でできることはないかを探し始めた

​地方での経営支援のあり方は、よろず支援拠点事業で多くの支援を行った経験から、セミナーでも話させていただいた

 

(秋田へ!)

2019年、秋田県のチーフとなった。秋田県は世界の最先端の人口減少と高齢化に置かれている。この厳しい状況に立ち向かう何かを探していた。そしてよろず支援拠点事業のスキームを活用した「0円店舗改善」によって、地域活性化の見える化の実現に取り組んだ。支援力の向上や六次産業化、売り方アイデアなど地方企業のために必要なノウハウについて、市町村、商工団体や金融機関向けに勉強会も行ってきた

​一方で人口減少や高齢化による経済規模縮小が続いている秋田県の閉塞感や諦め感は根強く、モチベーション向上が大きな課題でもあった。累計50店舗以上取り組んだ「0円店舗改善」はモチベーション向上に大きな効果があった。地方ではモチベーションが上がる支援として、目に見える成果を数多く提供することが必要であると学んだ。エディオン新規事業立ち上げの時に活躍していた広瀬典子を空間コーディネーターとして秋田県内の事業者店舗の改善に力を貸してもらい、多くの成果を上げることができた。地方では即効的な効果を数多く出さないと衰退する。V字で回復させないといけない危機的な事業者が多い

(地方活性化の障害)

日本全体の人口減少によって最も厳しいのが地方である。地方行政には二つのタイプがある。現状を打破しようと独自の考え方で地域を活性化しようと多くのチャレンジを目指す行政、現状に行政自らの諦めと全体と横並びの政策しか手がない行政。秋田県は残念ながら後者だった。そのため事業者の意識と行政の意識は大きく乖離してきている。どの地域でも苦しむ事業者は同じである。救わなければならない

(全国へ!)

2022年、法人を再度名古屋市へ移転。地方で実行してきた「0円店舗改善」は、行動心理顧客心理に基づいた独創的アイデアによる店舗リノベーション。さらにここに金融支援や再生計画等の経営改善のサポートを加え店舗改善ではなく「0円店舗再生」とした。これを全国の地方都市へと展開したいと考えた。悩み続ける地方店舗の売上を向上させることが、自分にとって最後のライフワークとなる

事業を良くしたくないと思う店舗事業者はいない。しかし「0円店舗再生」の実施に至るまでには様々な葛藤がある。今までずっと変わらずにいた自らの店が変わることの恐れがもっとも多いが、店舗の長い歴史の中でお金をかけて失敗した(特にIT投資や販促に多大なお金を投資してきたことが多い)経験が、また同じ轍を踏むのではないかという抵抗感になっていることも多い。その心理的ハードルを少しでも下げるために、自分は0円にこだわり続けている

(官民合同伴走型支援コンサルタント)

企業を支援するという仕事はいまだ諦めず、中部経済産業局の官民合同支援のプロセスコンサルタントに選んでもらった。企業経営者は常に孤独で生き残りと発展のために努力している。一方で経営者自身が気づかない部分もある。支援者は第三者の視点で客観性をもって企業をリードできる。さらにいい支援者を目指したい

 

伴走型支援を究めたい)

成果を出すのは事業者自身。支援者が成果を共有するためには、一緒になって現状を打開するアイデアを生み出し、一緒に解決する姿勢が必要。支援はその効果がわかりにくいため、一方通行の知識の伝達になりがち。あらたなステージで事業者をサポートするともに、強い思いを持つ支援者を生み出す環境をつくりたい

(名古屋市新事業センターにて)

事業の再生や革新に向かうことが、これからの日本に必要なのではないか?と、事業者支援の道を再び志すことにした。若者や女子の経営者があらたなサービスを創造していくことを微力ながら応援していきたい

加藤剛
bottom of page